クロッケーの歴史


【1】クロッケーの起源

★クロッケーの起源は、一般的には14世紀に南フランスの農民たちが行っていたペル・メル
(Paill Maill)という球戯であるとされています。このゲームは柄の先がかぎ方に曲がった杖をマ
レットとして用い、木製のボールを打ち、柳の枝を曲げて作ったフープに通すものでした。この
ペル・メルは17世紀までフランスで行われており、その後イングランドにも伝えられ、『Pele 
Mele』『Pesle Mesle』『Pall Mall』などと表記を変え、18世紀まで続けられていました。

★これとは別に、クロッケーとペル・メルは無関係であり、ペル・メルはむしろゴルフの原型にな
ったとする説もあるようです。したがって、クロッケーの直接的な原型は特定できませんが、そ
の発生時においては、ポロ、クリケット、ゴルフなどとルーツを同じくするような打球戯を起源と
していると考えるのが妥当といえます。 いずれにしても、現代的な形式のクロッケーに発展す
るのは、1852−53年にアイルランドからイングランドにクロッケーが伝えられてからのことに
なります。1830年代には、既に、その経緯は不明ですが、クロッケーがフランスよりアイルラン
ドに伝えられており、ゲームが行われていたのです。また、クロッケー(croquet)という言葉は、
英語の『Play』を意味するアイルランド語『Cluiche』に由来するもので、この言葉は実際の発
音では『Crooky』というように聞こえるのだそうです。

★このように、アイルランドにおいてクロッケーはある程度の形が整えられ、後述のように、イ
ングランドに伝えられてようやく普及・発展をみるのです。
 

【2】英連邦諸国におけるクロッケーの発展

★アイルランドからイングランドに現代的なクロッケーを紹介したのは、スプラット(Spratt)とい
う人物でした。彼は、1840年代には、南フランスやイタリアで実際のクロッケーを見てきたマク
ノートン女史(MacNaughton)からクロッケーの用具を受け取っており、1950年代にはいり、イ
ングランドのジェイクス氏(Jaques)にその用具セットを売却しました。

★ジェイクス氏は野心的な若者で、このセットをもとにクロッケーの用具製造を始め、クロッケ
ーの市場開拓のために自ら普及活動を始めたのです。ちなみに、現在『JAQUES』は、クロッ
ケーの世界において最も名の通ったブランドとして知られています。

★彼の普及活動により、1865年までには、クロッケーはイングランドをはじめその植民地に
まで広がっていきました。この当時、クロッケーは主に『アフターディナー・レクリエーション』とし
て楽しまれていたようです。また、1861年にはおそらくスポーツのルールブックとしても最初の
ものであり、現在のクロッケーのルールもそれを基礎としている『ロートレッジズ・ハンドブック・
オブ・クロッケー』が出版されています。

★1867年には、エベッシャムで第一回の国内選手権が開催され、その後1869年にはウィン
ブルドンにおいて『オールイングランド・クロッケー・クラブ』(以下AECC)が設立されました。こ
の時期には、フープの幅は初期のルールで規定された8インチ程度から5インチ、あるいは4イ
ンチ(現行サイズ)にまで狭められていました。

★1870年代になると、新たに紹介されたローンテニスの人気の方が上回り、1890年代中ご
ろまで、クロッケーの人気は下火になってしまったようです。この時期、AECCはこのローンテニ
スも取り込み、『オールイングランド・クロッケー・アンド・ローンテニス・クラブ』と改称されていま
す。

★1896年には、現在最も権威のある統括組織である『The Croquet Association』(以下
CA)の前身である『United All-England Croquet Association』(以下AECA)が設立され、この
時期より再びクロッケーが復活し始めることになる。1900年には、AECAはCAと名称を変更
し、その後のエドワード7世の時期(1901年〜1914年)にはクロッケーは爆発的な活況を呈
するに至った。この、いわゆる黄金期を支える基盤となったのは、イングランド各地の荘園領
主をはじめとする有閑階級であったとされます。

★その後、第一次世界大戦をはさみ、ルールもさらに高度化され、オーストラリア、ニュージー
ランド、アメリカなど連邦諸国とも交流を深め現在に至っている。

★現在イギリスでは、約80のCA加盟クラブと1500名の登録プレイヤーがおり、年間約80の
トーナメントが開催されている。このうち、4つのトーナメントは1900年前後から続いている由
緒あるものである。CAの総裁はエリザベス女王であり、また歴史の割には競技人口がある階
級だけに絞られ比較的少ないなど、クロッケーはイギリスにおいて、一種『貴族的な』スポーツ
としての趣を保っているといえる。

★クロッケーがイングランドよりアメリカに紹介されたのは1870年前後のこととされる。初期
は、ニューヨークのハイソサエティに独占されていたが、まもなく全国に広がり、同時期に紹介
されたローンテニスよりも人気が上回っていたほどであった。男女とも対等に競い合える唯一
のスポーツであったことが、この普及の最大の要因であったと分析されています。

★1882年にはこのような人気を背景に、『The National American Croquet Association』が
設立されるが、1890年代になりローンテニスの普及につれ、次第に下火になっていきまし
た。

★20世紀にはいると、本場イングランドと同様クロッケーはまた復活の兆しを見せるようにな
る。1903年にセントルイスで開催された第3回オリンピックではクロッケーは野球とともにデモ
ンストレーション種目として採用されました。その後、1930年には『The National Recreation
 Association』(全米レクリエーション協会)が定める標準セットのひとつにクロッケーセットも加えら
れ、アメリカの一般家庭において非常にポピュラーなレクリエーションとして定着するのです。

★その反面、特に映画界などではステイタスを誇示するスポーツとなり、ハリウッドのスターた
ちは競って自宅の庭にクロッケーコートを設けたといわれます。終戦後の1946年には、第1
回East West Championship がパームスプリングスで開催されましたが、出場プレイヤーには
300名以上の映画関係者の名前が見受けられたほどでした。

★1966年には、競技としてのクロッケーの技術も向上し、本場イングランドとのチャレンジ・カ
ップが開催されるようになり、こういった交流を通じてルールの整備も進み、イギリスを中心に
国際的に統一されたルールである『アソシエーション・ルール』をもとに、アメリカでは独自の『ア
メリカン・6ウィケット・ゲーム』および『アメリカン・9ウィケット・ゲーム』を作り出しました。このよ
うな国内外の活動の活発化に伴い、1976年には『The United States Croquet 
Association』(以下USCA)が設立されました。

★1983年現在で、USCAに加盟しているクラブ数は108で、インターカレッジを含む大小多く
の大会が盛んに開催されている。


【3】日本におけるクロッケーの黎明と衰退

★クロッケーに関する記述がわが国で始めて見られるのが明治9年(1875年)である。この
年、エル・ファレンタインが著した遊戯書『Girl's Own Book』を翻訳した『童女筌』が文部省より
発行され、これに『クロケー』が解説されたのであった。但し、同書ではクロッケーを外国の遊
戯として単に紹介したに過ぎず、この時にわが国でクロッケーが実際に行われたかどうかは不
明である。

★明治11年(1877年)には、アメリカ人リーランドの助力を仰ぎ、政府によって新構想の体操
教員養成所である体操伝習所(後に東京高等師範⇒文理科大学⇒東京教育大学⇒筑波大
学に)が開設された。体操伝習所では従来の武道や各体操術・教養科目の他に、この時期に
海外から導入された各種のスポーツもその教育的効果に注目して積極的に取り入れた。たと
えば、テニス、フートボール、そしてクロッケー(循環球)などのスポーツ種目を、『戸外運動』と
して学生に履修させたとされる。

★したがって、わが国へのクロッケーの実際の導入はこの時期(明治11年)であるといえる。そ
してその役割を果たしたのが、明治初期にわが国の新たな社会インフラを整える為に欧米より
盛んに招聘された外国人専門家の一人であったリーランドということになる。リーランドは、本
国アメリカよりラケットやボールを取り寄せてわが国に始めてテニスを紹介した人物としても知
られるが、これと同様に、体操伝習所の教材としてクロッケーもまた彼が道具を持ち込み、競
技方法等を指導したものと容易に想像される。

★その後、明治17年(1884年)には、体操伝習所の第1回卒業生である遊佐盈作によって、
同所で得た知識を当時の教育界に知らしめる形で『新撰小學體育全書』が出版された。同書
には、『循環球』としてクロッケーのルール・方法が簡単に解説されており、日本人によるクロッ
ケーの記述としてはこれが恐らく最初のものであると考えられる。

★明治18年(1885年)には、坪井玄道らによって『戸外遊戯法 一名戸外運動法』が著さ
れ、『クロッケー(循環球)』としてかなり詳細にそのルール・方法が解説された。坪井は体操伝
習所の開設当時よりリーランドの通訳ならびに同所の中心教員として活躍した人物であり、同
書の緒言に見られるように、クロッケーをはじめ同書で扱われた種目は、彼の実際の指導経
験を元にしたものであった。したがって、この時期に現れる『循環球』というクロッケーの和名
も、おそらく日本人としては最初に実際のクロッケーに接したであろう"通訳"坪井によって命名
されたものと想像される。

★明治10年代にわか国に導入されたクロッケーは、当初体操伝習所で行われていたのであ
るが、実際にはそれほど多くの頻度では行われていなかった模様である。同所の履修時間の
詳細を見ると、『戸外運動』はその他の3種の運動術と合わせて週9時間と規定されており、そ
れが適宜授けられたとされるので、『戸外運動』のうちの1種目に過ぎないクロッケーの履修時
間は極めて少なかったに違いない。

★また、明治10年代後半には、現在の体育会(運動競技)の成立の基盤となる"運動会"が各
地で盛んに行われるようになってきた時期である。明治期に各外来スポーツが発展する要因
のひとつにこの運動会の存在が非常に大きいが、クロッケーは運動会ではほとんど取り上げ
られることはなかった。唯一の例外として、体操伝習所関係者の組織する『東京体育会』が、
明治17年に開催した春季および秋季の大演習会の種目として取り上げたのみである。

★さて、坪井の『戸外運動法』は、遊戯書として当時画期的なものであり、明治20年代以降の
わが国の"遊戯研究熱"の火付け役となった。このブームにより、その後多くの遊戯書が日本
人の手で出版されるようになり、これらの多くにクロッケーも解説されることになるのである。さ
らにこのブームは女性体育の確立にも大きな役割を果たし、学校教育の中で女子の体育が重
視されるに従い、遊戯は特に女子に推奨されるものとなった。しかしながら、ここにおいてもク
ロッケーは実態としてほとんど実施されず、むしろ英米両国同様テニスの人気のほうが上回っ
ていたのである。

★その後、明治後期から大正・昭和前期にかけてクロッケーが個人的なレベルで楽しまれた
記録は散見されるものの、広く組織的に普及した形跡は見当たらず、『明治期』のクロッケー
はわが国に導入後10年程度で衰退したと考えられる。

★この要因として、次の項目が考えられる。
●(普及体制のみ整備)わが国で当時最もクロッケーに接する機会を持っていたのは体操伝
習所の学生であるが、しかしその頻度は極めて低く、おそらくゲームの紹介程度にしか過ぎな
かったはずである。そのため、卒業後、新たな理念を持った体育の指導者として各地に赴任し
ても、クロッケーを深く指導するだけの知識・技術を持ちえず、普及にまでは至らなかったと考
えられる。
●(他のスポーツの優勢)また、クロッケーは同時期に紹介された他のスポーツに比べてルー
ルが複雑で、かつ運動量も少なく、身体活動そのものから得られる具体的な楽しさが少なかっ
た。そのため、人々の関心はクロッケーを離れ、テニスなどの他のスポーツに惹きつけられて
いったことが推察される。
●(富国強兵主義との対立)明治の歴史は、体制的には帝国主義の形成期にあたり、この影
響は当然学校教育、特に体操科にも及んだ。すなわち、ここでスポーツに求められるのは、初
期の自然主義的価値観ではなく、富国強兵主義のほうであった。その観点からすると、運動量
が少なく、直接的に身体を強健にはなし得ないクロッケーは、せいぜい『婦女子の遊び』程度
の扱いとなり、教育的にも社会的にも期待値が低かったことが考えられる。
●(用具調達の困難)当時、クロッケーの用具は注文制作品であり、既製品として広く市場に
出回っているものではなかった。
●(遊戯書の形骸化)『遊戯研究熱』により、明治中期多くの遊戯書が出版されクロッケーも多
く取り上げられたが、その内容は『戸外遊戯法』(明治18年)の域を出ることはなかった。つま
り、英米においてこの間、クロッケーの面白みを増加させるべく様々なルールの改良が行われ
たが、それらの最新情報がフィードバックされておらず、したがって明治期の人々にもたらされ
るクロッケーの情報は、クロッケーがわが国に伝えられた当時の初期の状態のままであり、そ
れゆえクロッケーの興味を半減させた要因でもあった。

 
【4】日本におけるクロッケーの発展

★明治後期のクロッケーは短期間のうちに衰退するのであるが、第2次世界大戦後、そのスポ
ーツ特性がゲートボールに引き継がれて復活することになる。

★ゲートボール誕生の経緯は諸説あるが、明治22年(1947年)に北海道の鈴木和伸氏が明治
期のクロッケーをヒントに考案したという説が最も一般的である。氏は、戦後の遊びが乏しい時
期に子供たちの遊び道具としてゲートボールを考案し、自ら普及活動を行ったという。また北
海道の体育課もこれを取り上げ普及が促進され、昭和22年の第3回福岡国体ではマスゲーム
とともにデモンストレーション種目として採用もされた。昭和28年(1953年)には、これまで名乗
っていた『日本ゲートボール普及研究会』を発展・解消し『日本ゲートボール協会』が設立され、
さらに組織的な普及活動が展開されることになる。

★同協会の設立後、ゲートボールは主に職場のレクリエーションとして普及し、昭和33年(1958
年)より始められた『全日本ゲートボール総合選手権大会』では毎年多くの団体・会社のチー
ムが出場していた。その間わが国はいわゆる高度経済成長を遂げるが、人々のレジャー活動
が多様化するにつれ、職場や地域でのゲートボールは次第に下火となっていった。

★この1960年代から1970年代にかけての『レジャー多様化時代』におけるレジャーは、労働の
対極として捉えられており、その担い手は専から若年層・勤労者層であり、高齢者層は取り残
されていたのである。しかし、1970年代半ばには、高度経済成長期に対する反省から、社会的
な価値が転換し『生きがい』が重視されるようになった。これとゲートボールが結びつき、レジャ
ーに乏しかった高齢者層の間で急速に普及・発展をみるのである。

★1970年代以降、『日本ゲートボール協議会』、『全国ゲートボール協会連合会』、『日本ゲート
ボール連盟』などが相次いで設立され、独自に普及活動が図られた。現在、ゲートボールの競
技人口は250万から300万と推定されるまでに至り、高齢者スポーツの代名詞とまでなってい
る。このように、『明治期』のクロケーに比べ、『昭和期』のクロッケーの一つであるゲートボー
ルがこれほどまでに普及・発展した要因は次のように整理される。

★『明治期』と比較して『昭和期』では、昭和28年に『日本ゲートボール協会』が設立され、ゲー
トボールのルール・大会・指導員などを統括していたため、普及が容易に行われたと考えられ
る。また、その後の関係団体の相次ぐ設立も、高齢者に対する普及においてさらに拍車をか
けたものと考えられる。

★戦後すぐには子供たちの遊びとして、高度経済成長期には職場の労働阻害を緩和するレク
リエーションとして、また、それ以後には、老人の生きがいに結びつく高齢者教育・老人福祉と
して、いずれの時代にも、教育・労働・厚生等の面から行政が介入し、ゲートボールを推奨した
ため、これが上述の各団体の活動をより行いやすくしたと考えられる。

★この時期、特に高齢者にとって、これといった適当なレジャー活動がない状態であり、これに
対して比較的運動量が少なくしかも多人数ででき、それなりの楽しみが味わえるように改良さ
れてきたゲートボールの持つ特性が、高齢者の余暇活動における先有傾向に合致したため、
急速な普及を見るに至ったと考えられる。

★現在あるゲートボールの関係団体が定めるルールや用具の規格が少しずつ異なっており、
迷惑を被っているのはプレイヤーであるという批判もある。しかし、『明治期』にはみられなかっ
た、イギリスのMr.Jaquesのようなスポンサー・シップの働きが結果的にはゲートボールの普
及を促進させたのであろう。
 
★ゲートボールは明治期のクロッケーをもとに戦後考案されたものであるが、わが国で独自の
発達を遂げたため、国際的には非常に特殊なクロッケーであるといえる。このようなわが国の
"クロッケー事情"のなか、リーランドがわが国に始めてクロッケーを導入してから1世紀を経た
昭和58年(1983)に、国際的に統一されたルールで行われるアソシエーション・クロッケーを導
入し普及させるため『日本クロッケー協会』が設立された。

★同協会は、その設立に当たり、"グリーン・アンド・グレース"をモットーに『国際性』を強調して
いる。つまり、ゲートボールとは対象的に、ゲートボールのルーツであるクロッケーを、本場イギ
リスで行われているそのままの状態で持ち込み、極力日本的なアレンジを加えないようにして
いる点が特徴なのである。実際、後述するアソシエーション・クロッケーを採用し、英米両国よ
りトッププレイヤーを招いてデモンストレーションを行ったり、国内の大会に外国より参加者がある
など、ゲートボールにはない国際性が見られる。そして、協会設立後5年を経た現在、全国でそ
の愛好者300人、クラブは7団体が組織され、次第にその数を増やしつつあるという。また、そ
の支持層は高齢者だけでなく、大学生から中・高年齢層まで幅広いのが特徴である。

★明治開国以来わが国では多くのスポーツを摂取し、その後発展を遂げ現在に至っている
が、その過程は、それらのスポーツのオリジナルからかけ離れ、自国内的解釈のもとに進めら
れてきた感が強い。もちろんスポーツも文化の一領域である以上、異文化との接触によってあ
る程度の変容はむしろ当然のことであり、その好例がゲートボールと考えることもできる。

★しかし、1980年代に入り、スポーツに対して『生きがい』や『健康』といったものだけでなく、さ
らに多様な価値が求められるようになり、またスポーツにおける様々な"歪み"が社会問題化さ
れるにつれ、外来スポーツの包摂している『無形の雰囲気』を無視して、その摂取に努めてき
たわが国のスポーツの歴史に対して反省の声も高まってきた。

★したがってこのような状況の中で設立された日本クロッケー協会が、『国際性』を強調し、ア
ソシエーション・クロッケーにかかわるすべての要素を導入しようとする姿勢は、従来のスポー
ツ界には稀なものであり、このことがわが国のアソシエーション・クロッケー導入に関する現代
的意義であると考えられる。

 
【5】クロッケーのルールの変遷

★現在国際的に最も広く行われているクロッケーはアソシエーション・ルールによるものであ
り、イギリスはじめオーストラリア、ニュージーランド、日本などがこれに基づき、アメリカも国際
試合ではこれを採用している。このルールは、イギリスで発達したが、1870年代にアメリカや日
本にクロッケーが紹介された当初のルールと同じく『Routledge's Hand Book of Croqu
et』に基づいたものであり、この当時は、アメリカ式クロッケーや日本のゲートボールなど現在
みられるルールの分化はまだ進行していなかった。

★イギリスにおいては、1870年代にWimbledonで開催されたAECCのチャンピオンシップで
は、コート・セッティングは初期の10フープ2ペグ制であったが、1899年のAECAのルールで
は、変わって6フープ・2ペグ制のHALEセッティングが採用されることになった。この間、1870
年には、クロッケー・ショットにおけるフッティングが禁止され、また、フープの幅はしだいに狭め
られ、競技人数も減らし、その後1920年代には現在と同じ6フープ・1ペグ制のWillisセッティン
グが採用されるなど、今から70年前には現在のアソシエーション・ルールがほぼ確立されてい
たのである。

★このイギリスにおけるルールの変遷の歴史は、初期のルールをより困難なものにし、競技性
の強いものへと変えていったのが特徴であるといえよう。

★アメリカにおいては、初期のルールのまま人々にかなり浸透するようになり、9〜10本のフー
プ(アメリカではウィケットという)と2本のペグ(同、ステーク)クロッケー・ショットにおけるフッティ
ングの採用、コートレイアウトは比較的自由、といった内容で一般的なレクリエーションとして根
付くのである。その後、1970年代になり、イギリスとの国際交流によりルールの整備が図られ、
またUSCAが設立される時期になると、このアメリカの伝統を生かした『アメリカン・9ウィケット・
ゲーム』ならびにアソシエーション・ルールに基づく、しかし多少の違いがある『アメリカン・6ウィ
ケット・ゲーム』のルールを確立させた。と同時に、国際試合ではアソシエーション・ルールを採
用するという変則的な状況になっている。

★このようにアメリカでは、初期のルールを尊重しながらも、イギリスのようにルールを一本化
するのではなく、比較的自由にルールを変容させたのが特徴である。

★明治11年にリーランドが体操伝習所に導入したクロッケーも、Routledgeの系譜を引くもの
であった。すなわち、コートセッティングは9本か10本のフープ(明治期には橋形杭、鉄門などと
呼ばれた)と2本のペグ(同、棒杭、標柱)を用い、また、8個のボール(同、球、木球)と8本のマ
レット(同、槌、木槌)が使用され、競技人数は8人であった。また、フープの幅もボールの3倍
程度と広く、クロッケー・ショットについてもフッティングを用いるものとそうでないものの両方が
認められていた。

★その後、多くの遊戯書にこのようなルールが記述されるのであり、特に坪井の『戸外遊戯
法』では、イギリスのHALEセッティングも紹介されていたのである。しかし、それ以後の遊戯書
には英米でのルールの改良が反映されていなかった。このため、明治期の人々にとってクロッ
ケーは、明治初期に紹介された当時のルール的特長をもつスポーツとして認識されるようにな
るのである。

★さて、第2次世界大戦後ゲートボールが考案されたが、これはもともとクロッケーをヒントに考
案されたものなので、わが国の明治期のクロッケーの特徴を色濃く反映したものであった。そ
してその後、わが国の時代的要請に合わせながらルールが改良・確立され現在に至ってい
る。すなわち、戦後、ゲートボールは市民スポーツとしての性格が求められたため、そのルー
ルは簡易化や大衆化が図られたのであり、この点でも、その後わが国に導入されたアソシエ
ーション・クロッケーと一線を画す相違点となっている。
 


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